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【タクティクスオウガ】『支配されるという特権』とはどういう特権なのか

タクティクスオウガの名シーン。
聖騎士ランスロット・ハミルトンと暗黒騎士ランスロット・タルタロスの会話から。

暗黒騎士ランスロット
「・・・聖騎士よ、貴公は純粋すぎる。民に自分の夢を求めてはならない。支配者は与えるだけでよい。」

聖騎士ランスロット
「何を与えるというのだ?」

暗黒騎士ランスロット
「支配されるという特権をだ!」

歳を取るとこの会話の深み、このセリフの意味の深さが分かりますよね。

このシーンの会話

聖騎士ランスロット
「力で人を縛り付ける、そうしたローディスのやり方に問題がある、・・・そうは思わないのか?」

暗黒騎士ランスロット
「縛り付けた覚えなどないな。彼らは力で支配されることを望んだのだ。」

聖騎士ランスロット
「望んだだと?」

暗黒騎士ランスロット
「そうだ。・・・世の中を見渡してみろ。どれだけの人間が自分だけの判断で物事を成し遂げるというのだ?自らの手を汚し、リスクを背負い、そして自分の足だけで歩いていく・・・。そんな奴がどれだけこの世の中にいるというのだ?」

聖騎士ランスロット
「・・・・・・・・・。」

暗黒騎士ランスロット
「・・・貴公らの革命を思い出してみよ。貴公らが血を流し、命を懸けて守った民はどうだ?自分の身を安全な場所におきながら勝手なことばかり言っていたのではないのか?」

聖騎士ランスロット
「彼らは自分の生活を維持するだけで精一杯だったのだ・・・。」

暗黒騎士ランスロット
「いや、違う。被害者でいるほうが楽なのだ。弱者だから不平を言うのではない。不満をこぼしたいからこそ弱者の立場に身を置くのだ。彼らは望んで『弱者』になるのだよ。」

聖騎士ランスロット
「ばかな・・・。人には自分の人生を決定する権利がある。自由があるのだ!」

暗黒騎士ランスロット
「わからぬか!本当の自由とは誰かに与えてもらうものではない。自分で勝ち取るものだ。しかし民は自分以外にそれを求める。自分では何もしないくせに権利だけは主張する。救世主の登場を今か、今かと待っているくせに、自分がその救世主になろうとはしない。それが民だっ!」

聖騎士ランスロット
「人はそこまで怠惰な動物じゃない。ただ、我々ほど強くないだけだ。」

暗黒騎士ランスロット
「・・・聖騎士よ、貴公は純粋すぎる。民に自分の夢を求めてはならない。支配者は与えるだけでよい。」

聖騎士ランスロット
「何を与えるというのだ?」

暗黒騎士ランスロット
「支配されるという特権をだっ!」

聖騎士ランスロット
「ばかなことを!」

暗黒騎士ランスロット
「人は生まれながらにして深い業を背負った生き物だ。幸せという快楽の為に他人を平気で犠牲にする・・・。より楽な生活を望み、そのためなら人を殺すことだっていとわない。しかし、そうした者でも罪悪感を感じることはできる。彼らは思う・・・、これは自分のせいじゃない。世の中のせいだ、と。ならば、我々が乱れた世を正そうではないか。秩序ある世界にしてやろう。快楽をむさぼることしかできぬ愚民にはふさわしい役目を与えてやろう。すべては我々が管理するのだ!」

「支配されるという特権」とはなにか?

なぜ、支配されることが特権になるんでしょうか?

暗黒騎士ランスロットの

「いや、違う。被害者でいるほうが楽なのだ。弱者だから不平を言うのではない。不満をこぼしたいからこそ弱者の立場に身を置くのだ。彼らは望んで『弱者』になるのだよ。」

は深い言葉だと思います。
彼らにとっては「不平や不満を言うこと自体が目的」になってしまってて、その目的のために弱者であることを選んでるってことです。

なぜ不平や不満を言うかというと、自分が不幸である理由や上手く行かない理由を他人のせいにしたほうが簡単だし楽だから。

自分が不幸なのは世の中が悪いからだ。
自分が上手く行かないなのは指導者が悪いからだ。

そういう言い訳をするために、あえて弱者の立場に身を置いてると暗黒騎士ランスロットは言いたいんだと思います。
暗黒騎士ランスロットは、リスクを負って自分の足で歩きたくないから、弱者の立場にあえて身を置いているんだということを言いたいんだと思います。

自らの意思で未来を開拓するのは怖い。
自分の手を汚す必要も出てくる。
そうやって手を汚したからと言って未来を確実に拓けるわけじゃない。

となれば、誰かが用意してくれた道を歩く方が楽だし、その道に不満があっても文句を言いながら歩いた方が楽。
不平を言いながらでも、誰かが用意してくれた道であれば自分の手を汚さないで済む。

もし、自分が道を拓く立場となって他の人を誘導したとしても、今度は誘導されている人に不平や不満をこぼされる。
逆に不平を言われる側になってしまうっていうしんどい側になってしまいます。

つまり、「支配されるという特権」というのは「不平を言う理由を貰いながら、なおかつ他人の拓いた確実な道を歩けるという特権」ということなんじゃないかと思います。

あなたは「支配されるという特権」が欲しいですか?
それとも「支配されるという特権」を与える側になりたいですか?

1 Comment

もっぽい

意図的にずらしているのでなければ、その「真理の解釈」だと、聖騎士ランスロットと暗黒騎士ランスロットの会話にずれがある
こう言った創作で重要な場面でこう言ったずれは理由がはっきりないと気持ち悪くなるし、双方を自分で作るのでずれは寧ろ作り難い
そう言う意味では暗黒騎士ランスロットの言っている事は恐らく貴方が言っているのとは順番が逆だと思います
そして、聖騎士ランスロットは貴方が言ってるような事を言ってるのだと思います

要するに暗黒騎士ランスロットは「あいつらは怠惰で居たいからそうしてるんだからそうしてやれば良いのだ」と言っていて、
聖騎士ランスロットは「そうではない、彼らは臆病なだけなのだ」と言っているのだと思います
まぁ、キリスト教的「怠惰」の罪の神髄は「未知への恐怖」だと思っている私としては「同じでは?」と言われてしまうと悩む所はありますが、
実際には「怠惰」の内実含めて大きく違う面もあって、怠惰その物を求める性質だと希望がなく、怠惰は臆病さにより歪んだ結果だと希望が一応あるのです
なので、そう言う議論かな?と思いました

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